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「父ではありませんが 第三者として考える」 [本]


父ではありませんが 第三者として考える

父ではありませんが 第三者として考える

  • 作者: 武田 砂鉄
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2023/01/26
  • メディア: 単行本



子どものいないあなたにはわからないと言われるけれど――
「ではない」立場から見えてきたこととは。
「父親とは…」
「母親とは…」
「子育てとは…」
大きな主語で語られ、世の中で幅を利かせる「普通の家族」をめぐる言説への違和感を「父ではない」ライターが遠巻きに考えてみた。

私には子どもはいない。
そして夫もいない。
だから当然舅も姑もいない。
ついでに言えば兄弟姉妹もいない。
こんなにないないづくしでは、
さぞかし世間様からは「あなたには何もわからない」と思われていることだろう。
もしかしたら人にあらずくらいに思われているかも。

ところがである。
これがまた不思議なことに、
プライベートでも仕事でも、
なぜか私は「王様の耳はロバの耳」と言わんばかりに、
愚痴をこぼされて相談を持ちかけられる。
こういう私の人生の背景を知らない人からも。
こうなると私が背負っている私の人生の背景は、
話を理解するかしないか、
話や境遇に共感するかしないか、
そうしたことを私がしそうに見えるかは無関係だと思える。
相手が全員、私を叫ぶだけの穴だと思っているなら別だが。

つくづく思わされるのは、
「想像力の欠如」というものだ。
これはおそらくここ30年くらい抱えている思いなのだが、
どんな職業の人でも、
どんな立場の人でも、
どんな階層の人でも、
近年「想像力の欠如」或いは「想像力の貧困」を感じる。
それこそが「君にはわからない」の決めつけだ。
自分が反対にその立場ならわからない。
だから君にもわからない。
「想像力の貧困」の押しつけだ。
これが日本中に蔓延していると思う。
オリンピック関係者たちのトンデモ発言も、
或いは政治家たちの女を子どもを産む装置としか考えていない言葉も、
また多産の女性には補助金や表彰をと言う政治家も、
みんなみんなそれぞれに事情があることがわからない、
常に自分の時代、自分の環境、自分の価値観でしか考えない。
だから勝手に決めつけをしてくる。
LGBTQに対しても同じことだ。
自分がヘテロセクシャルだから理解できない。
理解できないのではなく、
理解しようとする想像力が欠如しているのすら自覚しない。
これは特定の政治家の話だけではない。
医者も想像力の欠如した人間が増えたと思う。
患者の痛みを理解しようとしない、
苦しみを想像しようともしない、
「ああそうですか、お薬出しておきますね」
電子カルテの画面に向かって患者を一顧だにしない。
こんな人たちに想像してもらうために、
理解してもらうためにどのくらい言葉を尽くせば良いのか。
いいや。いくら尽くしてもわからない。
だってわかる気がないのだから。

決してわかり合えない間柄で、
それでも視点を変えて考えてみて、
何とか歩み寄ろうというのは不毛な努力だ。
ただいくら相手が歩み寄ろうとしなくても、
なぜ相手がそう考えるのかを想像してみるのは悪くない。
逆にその傲慢さを想像してみると、
そこが一つのヒントになって語りかける言葉を変化させることもできる。
もちろん相手がそれで変わるわけではないだろうが、
そのことに反応した態度でまたこちらも考えられる。
これをお互いにすれば世の中は平和になるのだが、
生憎そうはならないのが現実である。
現実だからこそ政権は日本会議、壺、神社本庁に縛られ、
想像を巡らせるどころか、
生産性がない、理想の家族の形態に反すると断じる。
それがどれほどまでに残酷なことか、
当事者ではないものには想像するしかないが、
想像することで気持ちが歩み寄ることができる。

想像力の貧困と欠如。

それを嘆くならば、
この本を読むといくらか溜飲を下げるかも知れない。
想像力を巡らせてあれこれと考える。
それが武田砂鉄という人の魅力だし、
その視点を変えながら思考し続けること。
それこそが武田砂鉄という人の真骨頂だから。

互いを思いやるなどと言う生やさしい言葉では、
今やこの国は分断が進むばかり。
哀しい事にその距離が縮まる気配はまだない。

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