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「ゴジラ×コング 新たなる帝国」 [映画]



モスラ、参戦!そして、現れる史上最大の脅威…。
全世界が刮目する究極の共闘に、是非ご期待ください!!

レジェンダリー版「怪獣大戦争」。 
前回のキングギドラの扱いからして、
いやーな予感はしていたし、
大きな期待はしていなかったけれど。

娯楽大作としてはいいんだろうな。
単純にデカい怪物が戦って、
それぞれの力を誇示し合うその迫力。

でもね。
これが全部CGなわけで、
いくらIMAX画角で撮影された最初のゴジラって言っても、
やっぱりレジェンダリーが作っているだけあって、
コングが主人公なのよね。
「髑髏島の巨神」は予想もしていなかったから、
ラストで爆上がりしたけれど、
今やもう構図が見えたのでね。

ただCGだからこそできる、
細やかなコングやその他仲間たちとの会話、
表情や動作の細かさ、
これはなかなかに良くできていて、
最近の「猿の惑星」などもそのあたりのコミュニケーション、
これが実に面白い。
CGも特殊メイクも、
著しい発展を遂げてきたからこその楽しみであり、
まずはそこを楽しまなくてどうする?って話でもある。

これは私がひとえに東宝ゴジラ、
それも円谷プロの仕事が好きだからこそ、
感じることであり違和感を覚えることなのだけど、
ゴジラは決してジャンプなどしない。
おふざけで飛んでみたりシェーをしてみたり、
そんなことはあったけれど、
物理的に着ぐるみで重い尻尾を引きずるゴジラは、
飛んではならないし飛ぶこともないのだ。
そこで突っ込んじゃうのが私の悪いところだ。

と言うわけで、
途中から「面白いんだけどつまらない」と思っていた。
「ゴジラ-1.0」を観た後では、
CGの細やかな描写は健闘しているが甘い。
あくまでも何があっても、
アメリカ人にとって絶対的存在はコング。
ゴジラはその付け足しに過ぎない。
ましてやモスラなんて。





やはり最大の違和感は、
2014年に始めるこのシリーズは、
毎度のことながら放射能を軽々に扱いすぎる。
街中でもどこでもゴジラは放射能を吐く。
その様はまるで放射能による民族浄化、
戦争終結に至る過程を正当化するかのようだ。
所詮モナークも彼らの機関。
このシリーズにつきまとう、
アジアへの軽率な扱いぶりは変わらない。

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「コット、はじまりの夏」 [映画]



やっと見つけた、私の居場所―。1981年、夏のアイルランド。家族といても孤独だった9歳の少女コットが、親戚夫婦と過ごした“特別な”夏休みを描く、愛おしさに満ちた希望の物語。

たぶん初めて観たアイルランド語の映画。
全く聴き取れないし、
固有名詞はともかく、
なんとなくの名詞も聴き取れず。

コットの家庭は、
ある意味ものすごく典型的田舎のアイリッシュ。
オヤジはろくに仕事もせず、
酒と博打の生活で荒くれている。
そこへ持ってきてカソリックだから子だくさん。
全部確認できた自信がないのだけれど、
おそらく最後は7人だったと思う。
そんな中でコットは静かな少女(それが原題)。
親としてはどう扱っていいのかわからない。
おまけに母親は今にも子どもが産まれる状態で、
生活は苦しくて大変すぎる。
結果コットは母親の従姉妹の家に預けられる。
自分の感情を表すことを知らず、
自分の欲求もあるのかないのか、
それを出すことすら知らないコットは、
父親に送り届けられると荷物も降ろさず、
一応食事などして体裁は整えるが、
そこに置き去られるように車は遠ざかる。
愛情深くコットを見守り世話を焼く叔母。
愛想はないけれど遠くから見守る叔父。
2人に触れあううちにコットは子どもらしさを取り戻して行く。

不器用な人たちばかり。
本当は考えているし、
思いは人一倍なのにそれを表現できない。
愛していないわけじゃないけれど、
自分の不甲斐なさとどうしようもない生活に、
家族に当たり散らす以外できない父親。
そんな父親に振り回されながら、
子供たちを愛しながらもそれを表現しきれないほど、
生活と気持ちが追い詰められている母親。
姉たちはそんな生活がわかっていて、
ちょっと悪ぶったりコットをバカにしたり。
コットの目を真正面から見つめて、
愛おしそうに髪をとかして、
優しく浴槽で身体を洗ってくれる叔母。
恥ずかしいのか、何か傷が疼くのか、
コットに目もくれないけれど、
実はちゃんと見ていてくれる叔父。

最後のコットの言葉には号泣する。
口にした言葉の二つの意味。
「ああ」と思った途端に視界が曇る。

良い子だからじゃない。
ただ多くの家族に囲まれながら、
自分の感情を忘れてしまったかのようなコット。
父が爆発するのをおそれるコット。
子どもは人一倍空気を読むし、
人一倍気を遣うと言うことを忘れちゃいけない。
そしてそれを普通だと思っちゃいけない。
子どもは空気なんか読まないで、
気を遣うことなく自分の感情を出せないと、
将来何処かで歪んでしまうから。

だからこそこれが「はじまりの夏」なのだ。
原題には全くないけどw。



まぁあの父親なら、
最初は抵抗してもサッサと諦めそうだな。

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「リトル・エッラ」 [映画]



STORY
人と仲良くするのが苦手なエッラが、
唯一仲良くできるのは、おじさんで“永遠の親友”であるトミーだけ。
両親が休暇で出かけている間、トミーと過ごすのを楽しみにしていたエッラだったが、
オランダからトミーの恋人スティーブがやってきて、夢の1週間は悪夢へと変わる。
親友を取り戻したいエッラは転校生オットーの力を借りて
スティーブを追い出すための作戦に出るのだが…

「友とは人生の庭に咲く花」
なんと素晴らしい言葉だろう。
「友達なんて要らない。 
 叔父さんのトミーがいれば充分」
でも実はそうじゃない。
トミーにはトミーの人生があるし、
エッラにはエッラの正調がある。
でも互いの縁で広がって行く友は人生の花。
私はこの10年くらいで、
ラジオと言う媒体を通じて、
多くのオトナの知り合い、友達ができた。
もともと余り人付き合いの良い方ではない、
1人で行動するのが当たり前でそれがデフォルトの私、
まさかこの年齢になってから、
こんなに沢山の人たちと知り合うことになるとは夢にも思わなかった。

原題は「ミニ・ズラタン」。
ズラタン・イブラヒモヴィッチと言うスウェーデンのサッカー選手にちなんで、
サッカー好きのエッラをトミーが呼ぶ愛称。
まぁこれは「リトル・エッラ」で正解。
私も全然わからなかったものw。

とにかくこの手の映画は、
子役の演技力と可愛さにつきるのだが、
今回はなぜ「トミーと仲が良いのか」という点において、
トミーがゲイであること、
この部分がかなり大きな要素だった気がした。
彼は美容師、それもかなりの大物。
その彼の彼氏はオランダ人。
いくら理解がある北欧とは言え、
やはりそれなりに生きにくいこともあっただろう。
だから彼は優しくて思いやり深くて、
エッラの頼みにも無碍に断ることはしない。
それが純粋な子どものような心なのかと言えば、
決してそんなことはないだろうと思うのだ。
もしそうだとしたら、
いくら才能があるとは良いながらも、
美容師としてショーが開けるほど成功するはずもない。
オトナとして清濁併せ呑むことも知っていてなお、
エッラの純粋な気持ちに応えたいと思う優しさを持つ。
そしてだからこそ「友は人生の花」といえるのだろう。
本当の友は人生の花のようなものなのだと。

こういう映画を観ていると、
本当に多幸感で一杯になって、
世の中の全てを許せる気になってしまう。
そのくらいにエッラは可愛いし、
トミーはチャーミングで愉快で頼もしい。
ゴールデンウィークのさなか、
こんな楽しい映画で、
自分の大好きな場所で、
大好きなスープセットを食べながら、
時間を過ごせることの幸せを噛みしめる、
そんな映画だった。

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「異人たち」 [映画]



【ストーリー】
ロンドンのタワーマンションで暮らすアダムは、12歳の時に交通事故で両親を亡くした40代の脚本家。それ以来、孤独な人生を歩んできた彼は、在りし日の両親の思い出に基づく脚本に取り組んでいる。そして幼少期を過ごした郊外の家を訪ねると、そこには30年前に他界した父と母が当時のままの姿で住んでいた。その後、アダムは足繁く実家に通って心満たされるひとときに浸る一方、同じマンションの住人である謎めいた青年ハリーと恋に落ちていく。しかし、その夢のような愛おしい日々は永遠には続かなかった……。

多分日本では評価は分かれるだろう、
それは設定の変更から予想できた。
原作は読んでいないが、
もともとの「異人たちとの夏」に存在した違和感、
不自然さのようなものは健在。
主人公がゲイであること。
それが物議を醸すだろうことはわかる。
しかしそれが「異人たちとの夏」には存在しなかった、
世代と時代を超えた親子のちょっとした断絶を招く。
母親は動揺して受け入れられず、
当時「不治の病」とされたものはどうなったのか?
そのことを心配する。
当然だ。
1980年代にAIDSは死の病だった。
それもゲイの人間たちを中心に感染するため、
宗教的、社会的、道徳的に同性愛を受け入れがたい人たちには、
格好の攻撃材料となった。
2階にあがって幼少時の部屋に入ると、
すでに彼がゲイだったことがわかる。
GIジョーの人形、FGTHのポスター、様々な小物が、
彼の内面を表している。
その部屋に父親は入ろうとしなかった。
主人公はその理由を尋ねる。
この物語は12歳前に死んだ両親と、
本当の自分をわかってもらうための、
理解し合うための対話の時間を取り戻す物語。
そこが元の作品とは決定的に違う。
そして両親と会うようになったなお、
満たされぬ孤独と寂しさを共有し埋め会う存在、
心を開く存在を見つける物語。
最後は訳もわからず涙を流していた。

孤独、
寂しさ、
満たされぬ思い、
時代は変わってもなお、
マイノリティであるという思い。
その切なさを満たせるのは、
無条件の無償の愛だけなのかも知れない。

アンドリュー・スコットという俳優、
今まで見ていたのに全く印象に残っていない。
今回「やけに瞳が大きい人だなぁ」と思って、
その瞳の様子がやけに気になった。
ポール・メスカルは安定の不安定さ。
見るものを不安にさせる不安定な脆い雰囲気。
美しく蠱惑的でありながら、
何かが一緒にいるものを不安にさせる。
ビックリしたのは、
オヤジ役がジェイミー・ベル!
あの「リトル・ダンサー」のジェイミー・ベル!
最初クレジットを見て、
「えーっと、知っている名前だけと誰だっけ?」
で思い出したときのショックw。
でも悪い人じゃないし、
息子のことも理解しようと努めている。

決して派手な作品ではないけれど、
これは意外な拾いものだと思う。
むしろ「異人たちとの夏」は知らなくてもいい。
これはこれで、
非常に現代的に脚色され、
1980年代のヒット曲を背景に、
当時のゲイカルチャーがどんなもので、
マジョリティが向ける視線や抱く認識がどうだったか、
それを繊細に克明に描き出している。

2024年に、
まさかフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドに泣かされるとは。

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「RUN/ラン」 [映画]




RUN/ラン(字幕版)

RUN/ラン(字幕版)

  • 出版社/メーカー:
  • 発売日: 2021/11/19
  • メディア: Prime Video


ある郊外の一軒家で暮らすクロエ (キーラ・アレン) は、生まれつき慢性の病気を患い、車椅子生活を余儀なくされている。しかし地元の大学への進学を望み自立しようとしていた。そんなある日、進学の夢も後押ししてくれている母親ダイアンに不信感を抱き始める。ダイアンが新しい薬と称して差し出す緑色のカプセル。クロエの懸命な調査により、それは決して人間が服用してはならない薬だったのだ。クロエは母親から逃げようとするが、その行く手には想像を絶する試練と新たな衝撃の真実が待ち受けていた…。

この映画の公開当時、
「たまむすび」で町山さんが紹介していて、
とんでもない映画だなと思った覚えがある。
親子関係、特に母子関係に、
若干の(なんてものじゃない)トラウマを持つ私は、
面白そうだと思っても観るのが怖かった。
WOWOWで放送されたときに録画したが、
なかなか観る勇気が出なかった。
今回はアマプラでオススメに出てきたから、
「これも運命か」と腹をくくったw。

全てを見終わって思うのは、
「依存ってコワイ」って言うことと、
「あの母親はもし○○の○だったらどうしていたか」
ネタバレだから伏せ字にするけど。
そして因果は巡ると言うことだ。
ただここ数年の間に、
現実にこのような事件が起こっていて、
二番目の疑問は打ち消された。
事実は小説より奇なり。
最近は映画の設定を超えた事件が起こる。
まったくどうにもならない社会だ。
もともとこういう事件は、
広いアメリカで隣人が遠いからこそ成立する、
そういうものだと思っていたが、
今や日本では公共住宅のようなところでも起こる。
なんと隣人との距離が遠いことか。

傍からは美しい親子愛。
正常と異常の境はどこにあるのか。
どこからが毒親でどこまでが普通の親なのか。
線引きは非常に難しい。
ハラスメントと同じで、
受ける側の感情に左右されることは言うまでもないが、
物理的に異常さを露呈していれば、
客観的にも異常さを証明できる。
でも証拠がなければ他人は手出しも口出しもできない。
いつから親子関係がこんなことになったのか。
いや、聖書の時代から同じだ。
カインとアベルの兄弟でさえ、
それぞれに歪んだ愛情と仕打ちで苦しんだ。
その現代版が「エデンの東」だ。

本作は極端なストーリーだが、
これと似たようなことはある。
事件として聴いたことはある。
薬物ではなく物理的に子どもの身体を破壊する。
そんな親も本当にいるのだ。
いつまでも子離れできない親。
娘と服を共有して一緒に出かける母と娘。
たまに出かけると見かける。
この関係もまた本当にただの仲良しなのか、
私にはある意味少し違う気がしている。
健全とはなんなのか。
正解はないだけに日々疑問に思っている。

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「ドラキュラ/デメテル号最期の航海」 [映画]




ドラキュラ/デメテル号最期の航海(字幕版)

ドラキュラ/デメテル号最期の航海(字幕版)

  • 出版社/メーカー:
  • 発売日: 2023/11/29
  • メディア: Prime Video


ルーマニアのカルパチア地方からロンドンまで、謎めいた50個の無記名の木箱を運ぶためチャーターされたデメテル号は、不可解な出来事に遭遇する。見渡す限りの大海原で、毎夜人間の生き血を求め襲い来るドラキュラが出現したのだった。パニックに陥りながらも、生き残りをかけた壮絶な戦いに臨む乗組員たちだったが…。

なにせハマーのホラーファンなもので。
今でもドラキュラ、フランケンシュタイン、ゴーレムとか大好き。
なのでこの映画も劇場で観ようか迷って、
まぁこの手の映画はすぐに配信になるし、
足代を使っていってガッカリも辛いのでやめた。

いきなり船長の可愛い孫、
見覚えがあるなぁと思ったら「カモン カモン」の子じゃないの。
あの巻き毛と大きな目が印象的。
さすがに子どもだから生き残るのかなぁと思ったら、
一番可哀相な殺され方と甦り方。
全体的にコッポラの「ドラキュラ」の影響があるようなデザイン。
ドラキュラが伯爵姿を表さないので、
化け物だけで終わるのはちょと残念。

あの時代だからしょうがないけれど、
生血をいきなり輸血して、
それでそれぞれがピンピンしているのってどうなのか。
原作通りなのかもしれないが、
現代からすると不安になるわw。

まぁもう最初から結末はわかっているし、
おまけにもはや古典ホラーなので、
どこにどんな面白さを持ってくるかなんだけど、
期待したほどではなかったかな。
プライム無料まで待っていたから良いけどw。

コッポラの「ドラキュラ」があるのに、
ここをクローズアップして撮ろうとした根性は立派。
如何せん密室劇(船上)の面白さが、
神出鬼没のドラキュラには通用しないことが残念。

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「においが眠るまで」 [映画]



あらすじ:
匂いに敏感な、ひのき(17)は、
亡くなった父が残した全国のミニシアターで観た映画の感想が書かれたノートを見つける。
ある映画館だけ場所がわからず、匂いのメモや、感想だけが書かれていた。
コーヒー豆の焙煎店を営んでいた父が残したコーヒー豆を配りながら、父の巡った映画館へと旅にでるひのき。
薄れていく父の匂いと、場所のわからない映画館を探しながら、ひのきは少し、大人になっていく。

ロケ地にあの映画館版の御成座と、
シネコヤが使われていると言うことで、
何よりもミニシアターファンとして観なくては!
と言うことで、
ストーリーも出演者も調べずに向かう。
最近このパターン多過ぎw。
でもそれだけシネコヤでかかる映画に信頼を置いている。

ひのきは父親を亡くして、
それを忘れたいがために片付けを進める母の違和感を覚える。
彼女はまだ忘れたくないのだ。
彼女の思い出は「におい」と強く結びついている。
だけどやがてその「におい」も薄れて、
記憶から消えてしまうのだ。

映画館にはそれぞれのにおいがある。
シネコン全盛の今、
どこのシネコンも同じじゃないか、
するのはポップコーンのにおいだよ、
そう言われてしまいそうだが、
まだ入場制限もなく、
コンクリートの床で冬は底冷えがして、
夏は涼しいと言うより寒くなりそうなくらい、
途中退場途中入場あり、
中で飯を食おうが酒を飲もうが、
自由で何の文句も言われなかった時代、
映画館の中は生活のにおいであふれていた。
おととしから去年初めにかけて、
シネコヤは改装をしたのだが、
改造前のシネコヤには懐かしい独特の香央理があった。
それはちょっとかび臭いようなちょっと甘いような、
不思議に心が落ち着く癒されるにおいだった。
改装後の今は多少薄くなったのだが、
それでもやはり独特のにおいをいつも感じている。

秋田の御成座は手書きの看板で有名。
今もまだ手書きの看板にこだわって、
その素晴らしさはSNSでいつも紹介されて、
更にはいつも可愛いウサギが紹介される。
もちろんと言ってはなんだが、
生憎私は行ったことがないので、
どんな館内なのか映像を楽しみにしていた。
期待通りだった。
残念ながらうさちゃんは登場しないが、
外からの眺めで存分に看板が映されて、
中の様子は昔懐かしい田舎の映画館。
一番後ろに手すりがある作りも、
決して人間工学に基づいていなさそうなシートも、
懐かしい限りでそれだけで心が躍る。
そこで繰り広げられるユルい地元の爺さんたちとの会話。
その会話と存在が妙にしっくりとくるひのき。
ここは映画館であり、
街の暇な爺さんたちの社交場でもある。

秋田から唐突に鵠沼海岸。
シネコヤの主人との話が始まる。
この主人はあくまでもシナリオ上の主人。
本当の店主である竹中翔子さんとは見た目と雰囲気が全然違う。
もしかしたらこの人が店主なら、
シネコヤは今のような雰囲気ではなかったかも。
映画関係の本やパンフレットであふれた1階の店内、
アンティーク家具のソファや椅子が置かれた、
2階の落ち着いた雰囲気のシアター。
今そこに座っている空間が、
目の前に映し出されている不思議。
思い出される1階の本のにおい。
夜更けにベランダでたべるシーフードヌードルの背徳感の香りまで、
何とも生々しいくらいに脳内で再生される。

そして次に行き着いた先は、
周りのあるものや特長しかわからない映画館。
でもその映画館も今はなく・・・。

父親のにおいを思い出せるうちに、
そのにおいを再現しようとするする。
そのにおいは父親の日常のにおい、
構成するのは父親が生きた世界のにおい。
夕方になると家々から流れてくる夕食の香り。
それもまた生活の世界のにおい。
ちなみに私が働く事務所は、
ベーカリーがすぐそばにあるので、
窓を開ける季節はパンを焼くにおいで満たされるのが日常。
おそらく他人からしたら、
私にも独特のにおいがあるのだろう。
昔は喫煙者だったのでそれが私のにおい。
今はもうタバコも酒も止めたけれど、
年齢なりの加齢臭とデブの汗臭いにおいだろうか?

ひのきがあの店を継ぐのかはわからない。
でもあの設備さえ残しておけば、
きっと彼女は何かにつけ豆を焙煎して、
美味しい珈琲を入れることができるだろう。
それはにおいに敏感で父親を深く愛していたひのきにとって、
当然のことに用に思える。
でもそれまであの店の香りは封印だ。
次にはひのきが新しいにおいを残すようになる。

たった91分の映画だが、
ものすごく密度が濃くて、
ものすごく満ち足りた気持ちになれる。
両方の映画館を知っている人なら、
なおさらその思いは強いだろう。
こういう形でミニシアターに人が興味を持ち、
足を向けてくれるようになったら嬉しい。

でも自分の席が取りにくくなるのはちょっと辛いw。


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「瞳を閉じて」 [映画]



<STORY>
映画『別れのまなざし』の撮影中に主演俳優フリオ・アレナスが失踪した。 それから22年、当時の映画監督でありフリオの親友でもあったミゲルはかつての人気俳優失踪事件の謎を追うTV番組から証言者として出演依頼を受ける。取材に協力するミゲルは次第にフリオと過ごした青春時代を、そして自らの半生を追想する。そして番組終了後、一通の思わぬ情報が寄せられた。―― 「フリオによく似た男が海辺の施設にいる。」

芸術家やクリエイターの鼻っ柱をへし折ると、
こじれてとんでもない事になる。
素直に観れば、
「ああ、これだけのものを作るのに、 
 これだけの膨大な時間がかかったのだ」と思うし、
「エル・スール」の時間を巡る騒動を思うと、
「ああ、その無念をこうやって設定を変えて、
 かつとんでもない恩恵をもたらした女性を登場させて、 
 ここまでの物語を作り上げるまでに何十年?」と思う。
ちなみに私は後者。

「エル・スール」には続きがあった。
それを足すと合計3時間の上映時間になる。
それをプロデューサーが阻止したがために、
この物語を紡ぐのに40年かかったと言うわけだ。
行方不明になった俳優を探すのも、
その娘にアナ・トレントを廃したのも、
全ては監督の思いの丈を表現するためだったのだろう。
おかげでこの映画もまた3時間弱だ。
もう最近は2時間半を超える映画にビックリもしないが。

劇中劇である映画から始まる。
だからしばらくは掴みきれない部分があるが、
それでもちゃんと説明が字幕であるので、
とてもわかりやすい。
「オッペンハイマー」の逆効果がここでものを言う。
「ああ、映画ってこういうのが普通だよな」と。
美しい海辺の老人施設に身を寄せていた、
記憶喪失の一人の男。
それが失踪した俳優ではないかという情報。
彼の親友である当時の監督である主人公は、
今も彼の娘と連絡を取り、
彼が失踪した謎を追っている。
だから当然会いに行って確認する。
会えば記憶が戻らないかという淡い期待は裏切られ。
なぜだか彼は現状を受入ながら、
高齢者施設の修繕係として働いて住まわせてもらっている。
その彼と一緒に暮らしながら、
主人公の心にも変化が出てきて、
彼の娘を呼び寄せて引き合わせる。
そして彼が思いついた最後の方法は・・・。 
 
「彼の目を見ればわかる」

この言葉が肝になる。
そしてこれだけの人間関係を、
主人公の思いも含めて、
様々な関係の愛情や抱えている思いが、
様々に絡み合って、
或いは一方通行で、
切なくもあり哀しくもある。
そして最後の手段に出た主人公。
正直ひねくれた私は、
「あーあ、ここでもニュー・シネマ・パラダイスかよ」って一瞬思った。
「エンドロールのつづき」「バビロン」と、
映画にまつわる映画はどうしてもそこに帰結するので、
「安易な結末を」と思ったことも確か。

ところがどっこい。 
思いきりそれは裏切られるし、
さすが30年の思いの丈を振り切って、
思いっきり自分の好きなようにかはともかく、
納得のいくように頑張っただけある。
正直やられた。
ラストシーンが脳裏から消えない。
映画好きのわかったような予想を後悔した。
2時間49分一度も尿意なし。
途中多少意識は途切れたwが、
言葉と映像が静かに語りかけてくる時間、
良いことも悪いことも、
様々な登場人物も、
全てが含まれているあのラストカット。
出てきたのは涙ではなく深い吐息。

こう言う世界。
おそらくは唯一無二。
ビクトル・エリセ監督の真骨頂発揮。
ちょっと醒めた目で見に行ったけど、
やっぱり最後は違う目になった。

爆発力はないけれど、
静かに心を満たしていく。
これこそ映画の醍醐味。

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「オッペンハイマー」IMAX鑑賞。 [映画]



さていよいよノーランの本領発揮、
IMAXで鑑賞しようと入場までベンチで待っていたら、
なにか見覚えのある顔が視界を横切る。
息子さんらしき人と連れ立った高橋源一郎さん?
あれはもしや高橋源一郎さん?
鎌倉にお住まいだからここに来てもおかしくない。
いや、普通は横浜方面に行くだろうけど、
横浜駅前ではDolbyシネマ公開だし、
もしかしたらこっちのIMAXを見に来たのか?
勝手に@オッペンハイマー」を見に来たと思った。
ちょっと後を追いかけて「うむ」。
トイレに行って一旦落ち着いて、
あ、やっぱり源ちゃんだ!と思ってお声がけ。
やはりオッペンハイマー」鑑賞でした。

てなわけで、
映画を観る前からテンションマックスw。

今回ものすごく感じたのは、
オッペンハイマーという人はあくまで理論物理学者であり、
あくまでも各々の才能をまとめ上げたに過ぎないということ。
そしてその理論では、
もしかしたら世界を滅ぼす可能性すら予見していた。
それでも彼が止まらなかったのは、
自らの理論を証明せずにはいられなかった学者根性。
そして様々な部分で認められながらも、
圧倒的な賞賛が得られる軍から舞い込んだとんでもない規模の仕事。
でもその結果は彼が予想した以上のものであり、
彼は自分達の作り出したものがもたらした結果から目をそらし、
世界を焼き尽くさないまでも、
広島、長崎の人々と土地を焼き尽くし、
その結果彼のその後の人生は、
プロメテウスよろしく拷問にさらされる。
彼は自分の欲望と良心に従った。
ドイツが降伏して日本に投下するとなった時も、
「必要ない」「やるべきではない」という声もわかっていたが、
学者としてリーダーとして、
作り出したものの結果を見ずにはいられなかった。
それが一生涯彼を悩ませることになっても。
テラーの提唱する水爆に強固に反対したことは、
同じ理論物理学者であるテラーの実績を疎外するものでもあり、
おそらくは恨まれて憎まれもしただろう。
二度目の公聴会と聞き取り調査はやはり疲れた。
一言一句聴き逃すまいとする気持ちと同時に、
全開聴き逃した言葉はなかったか、
質問、尋問に反応する一挙手一投足、
見逃したところはなかったか、
緊張感を持って観てしまうと言うのがホンネ。
それに関してIMAXは素晴らしい効果。
本当に没入感を持って観られたし、
あの大画面の中心に人物をすえて字幕を観るのが、
こんなにも臨場感があるとは思わなかった。

それにしても。
おそらく良妻賢母ではなかったであろうキティ、
彼女は自分自身が見識のある人間であり、
かつ学者だっただけに強靱でしなやかで、
夫の危機にも自らが立ち向かう。
そして最後の最後、
あの表情は圧巻だった。



今日の帰りのカップルの会話。
女性:「安全保障とかそんなの別に知りたくないんだよ」
男性:「いや、あれが撮ったから面白いかと思ってさ」
多分彼氏から誘ったんでしょうね。
で、女性はおそらく原爆の完成と投下シーン、
その後の日本などを想像していたんでしょうな。
「あれ」とはノーランのことでしょう。
でも残念ながらその「安全保障」において、
オッペンハイマーはもう任せることはできないと断罪されたし、
それはストローズのコンプレックスと屈辱からはめられた罠だし、
それこそがオッペンハイマーが「原爆の父」と言われながらも、
その後国家的プロジェクトから外された原因。

思えば「バーベンハイマー」で盛り上がったアメリカ人も、
もしかしたらあの会話劇はどうでも良かったのかもしれない。
オッペンハイマーによるマンハッタン計画で、
原爆が作り出されて広島、長崎に投下され、
それによって日本が降伏し(実際にはその前に決まっていた)、
戦争を終結させたと言われていること、
そのことが大事だったのだろう。
「アメリカが原爆を作って投下したことの正当化」を描いたと言う人もいたが、
ハッキリ言ってイギリス人であるノーランがそんなことを描く必要性がない。

政治と軍事と科学。
これは切っても切り離せない。
そこに民族問題や人種問題。
そうなったらもう泥沼だ。
でももし次に核が使われる日が来るとすれば、
それは政治的な要因か、
人種、民族的な要因か、
いずれにしてもそこに合理性などない。

核の脅威がなかった時代。
私たちはもう戻ることはできない。
そしてそこにある原発。
それもまた攻撃されれば武器に変わるのだ。



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「オッペンハイマー」 [映画]




本物のオッペンハイマー

本物のオッペンハイマー

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  • 発売日: 2023/08/30
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オッペンハイマー 上 異才 (ハヤカワ文庫NF)

オッペンハイマー 上 異才 (ハヤカワ文庫NF)

  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2024/01/22
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オッペンハイマー 中 原爆 (ハヤカワ文庫NF)

オッペンハイマー 中 原爆 (ハヤカワ文庫NF)

  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2024/01/22
  • メディア: Kindle版



オッペンハイマー 下 贖罪 (ハヤカワ文庫NF)

オッペンハイマー 下 贖罪 (ハヤカワ文庫NF)

  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2024/01/22
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マンハッタン計画 オッペンハイマーの栄光と罪

マンハッタン計画 オッペンハイマーの栄光と罪

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Oppenheimer [Blu-ray] [2023] [Region Free]

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半年以上待たされて、
その間にアメリカではメディアも発売されて、
一時は買おうかと思ったけれど、
日本語字幕がないから諦めて、
原作となった本は絶版。
フリマでオークションで高値。
やっと復刊したと思ったが、
上巻の途中までしか読めず、
見られたのはAmazon Prime Videoと「映像の世紀バタフライエフェクト」。
オッペンハイマーという人を理解するため、
準備が必要だったのは、
日本人にとっては「原爆の父」とも言われる人の、
人間的側面の情報に触れる機会は少なく、
自分が何も知らない状態だったから。

「オッペンハイマー」(原題:アメリカン・プロメテウス)の上巻、
燃焼時から学生時代までを読んで、
この知識を入れておくことは大きいと思った。
後に「学者バカ」とか「世間知らず」のように言われる人にありがちな、
純粋に学問をすることが好きで、
だけど人間としては性格も手先も不器用で、
それが故にのめり込んだら抜け出せない、
何処か人間として情動的に問題のある人、
そういう人であると言うことを知っていおいたのは、
映画を見る上に置いてとても重要なベースになった。

結論から言ってしまえば、
おっペンハイバーという人は非常に複雑で、
内的にも外的にも矛盾を多々抱えていて、
決して倫理的な人でもなければ、
必ずしも良き夫でも良き父親でもなく、
良き科学者でもなかったことは確か。
彼は本当に「理論物理学者」であり、
自分は傑出した手腕があったわけではないけれど、
多くの専門家の知識と手腕をまとめ上げる能力、
そういう意味での洞察や管理能力に優れていた人。
そしてその能力を最大限群と政府に利用された人。
そう言うことなのだ。
そしてその人間としての欠損故に、
敵を作って過去をほじくり出されて、
彼が原爆使用の後にした発言を取り上げられ、
結果的に彼は追い込まれたのだ、

原爆を作ろうとした動機は「ナチスを壊滅させるため」。
ユダヤ人だった彼にとって、
アウシュビッツで行われていることを思えば、
それは決して無理もないことだった。
あの当時はアメリカ、ドイツ、日本が、
原爆をどこが一番先に作るのかを競っていた。
もちろん作る=使用するなのだが、
しかし結果的にほぼ完成に近づいたところで、
ナチスは降伏してドイツとの戦争は終わる。
軍としては20億ドルをかけたこのプロジェクト、
その成果を何処かで見せることが必要。
そこで見つけた目的が、
「戦争を終わらせることで犠牲者も減らせる」という大義名分で、
日本に原爆投下をすることだった。

徹頭徹尾、
あくまでも理論物理学者だったオッペンハイマーは、
「ナチスを滅ぼす」という大義名分の元に利用され、
余りにも純粋で何かが欠損していた彼は、
それが大量破壊兵器になることも承知、
理論上計算上では、
もしかしたら世界が滅びることにナルコとも勝利、
それでもやらなきゃいられなくなってしまう。
そして広島長崎の営巣、レポートを見せられたとき、
彼は正視することを拒否している。
日本に来たときのコメントでは、
「原爆投下を後悔はしていない」と言ったが、
彼は科学者としては決して後悔していないだろうが、
人間としては違ったのではないだろうか。
学者としては作ったら試したくなる。
だから日本への原爆投下に反対の署名は拒否した。
でも実際にその被害を目の当たりにすることさえできない。
彼は単なる学者。
優秀であるが故に軍に利用された学者。

おそらく広島長崎の人には、
私の主観は受け入れられないだろう。
どんなことがあってもあんなにも残虐な大量殺戮兵器を作った、
そのことの罪は免れないと考えられて当然だ。
何しろ彼は「アメリカン・プロメテウス」なのだから。
彼自身が感じた血塗られた手は決してキレイにはならない。
その感情は理解できる。
だからそのことは否定しないし受け入れる。
だけどこのことはいくら議論しても不毛だ。
彼は作ってしまったし、
軍と政府は投下してしまった。
その事実は変えられないのだから。

さて、映画本体。
いやはや、ノーランには恐れ入った。
こんなにも濃密な人間ドラマを、
彼が脚色して撮影できるとは思っていなかった。
最初1時間は多少かったるい。
説明は細かくはしないが、
オッペンハイマーの学者としてどういう人か、
人間として男としてどういう人間か、
そういうものが描かれているので、
多少なりとも退屈な時間ではある。
ただし私は本で彼のそれ以前を読んでいたので、
ものすごく納得したし、
彼の欠損した部分についての描写に、
「これが後の伏線になる」と思えた。
そこからは怒濤の展開。
彼が陰謀によって追い詰められて行く様子、
追い詰める方が得意げに語る様子、
その緊迫と一瞬も聞き逃せない台詞が続く。
きっかけは些細なことだったけれど、
コンプレックスの塊だったストローズが、
何気ないエリートで裕福なオッペンハイマーの発した言葉から、
こんな事態にまで発展するなんて、
オッペンハイマーには想像もつかなかっただろう。

俳優の人数が多すぎて、
いちいち褒めていたらきりがない。
なので少しだけ。
エミリー・ブラント演じる妻は、
最初から複雑な関係からスタートして、
いつも肝心な所では肝っ玉の据わったおっかさん。
オッペンハイマーにとっては妻と言うより母親だ。
その凄味足るや、
クライマックスの目線一つで人を射殺しそうだった。
そしてトム・コンティ演じるアインシュタイン。
彼は原爆の製造を大統領に助言した。
しかし彼はその罪も自分の中で引き受けていた。
あのお茶目な表情で知られたアインシュタインを、
実に辛気くさく、しかし懐が深い人とiして、
しっかりと演じていたのが感動的。
「水爆の父」となるテラーを演じたベニー・サフディ、
これがまた独特の存在感で、
複雑な思いを抱えて対立しながら、
水爆に反対するオッペンハイマーへの反感を静かに爆発させる。
アカデミー賞受賞俳優はもう当然だから割愛する。
もう本当にちょい役だけど重要ならラミ・マレック、
彼の科学者らしい冷静で理路整然とした口調の素晴らしさ、
ジョシュ・ハートネットの落ち着いた大人としての口調、
不安定で魅力的な女性を体現するフローレンス・ピュー、
書き出したらきりがない。
個人的には最高の演技で最高過ぎた、
ケネス・ブラナー演じるボーア。
あの説得力と人間としての存在感は傑出していた。
オッペンハイマーに影響を与える人物として、
彼は見事なまでに彼の心を決めさせるのと同時に、
大きくかき乱す役割を果たす。

今回私は敢えてシネマスコープで観た。
最初の1回目はこれでちゃんと理解したかった。
そしてラッキーだったことに、
これが特別な音響であるSAIONのスクリーンで、
唯一上映される時間帯が当たった。
これが最高だった。
スクリーンは無理なく全視野に映像も字幕も入る、
そして迫力の音響効果。
実際にシートがフルエルほどの音響なのだ。
そしてこのあとIMAX上映に挑む。
我ながらなかなかいい選択だったと思う。

画面がカラーからモノクロに切り替わるし、
時系列はバラバラだし、
いろいろと錯綜しながら映画はすすむ。
だから一度で理解するのは難しいかもしれない。
でもそれならば何度でも観れば良い。
なんででも観て楽しむ価値がある。
そういう映画だ。
そしてこれは原爆製造と原爆投下を正当化した映画ではない。
むしろ製造したことによって死の神となり、
投下したことで破壊の神となった男、
その男の複雑に引き裂かれる心と人生、
そしてその彼に人生を狂わされた人たちの物語。
でも実際に彼は軍に利用された学者だ。



余談。
映画終了後20代半ばくらいのカップルの会話。
彼女:「すごかったん」
彼氏:「え、でも3時間まではいらないよ:

貴方がどう思うか、
劇場で是非ご覧ください。

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