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「ノマドランド」 [映画]


企業の倒産とともに、長年住み慣れた企業城下町の住処を失った60代女性ファーン。彼女の選択は、一台の車に全ての思い出を詰め込んで、車上生活者、“現代のノマド(遊牧民)”として、過酷な季節労働の現場を渡り歩くことだった。大きな反響を生んだ原作ノンフィクションをもとに、そこで描かれる実在のノマドたちとともに見つめる今を生きる希望を、広大な西部の自然の中で探し求めるロードムービー。

去年町山さんが紹介してくれたときから、
ずっとずっと観たかった。
公開が延期になってとても待ち遠しかった。

正直言って、
まだ感想が整理しきれない。
今私は近づく定年退職を意識しながら生きている。
当然私の年齢では60歳から年金は出ない。
しかし定年退職は確実に訪れる。
今も楽な暮らしではない。
もしこの賃金の75%以下になったら暮らせない。
だからといって特殊な資格も技術もない。
そして中年期以降見舞われた、
心身の病のためにろくな蓄えもなく、
当然夫も子供いないし兄弟もいない。
日々不安の中でこのところ生きていた。

だから夫に先立たれ、
企業城下町で暮らしていたファーンが、
企業の閉鎖と共に街も閉鎖されて、
充分な年金も受けられない彼女が選んだ道は、
ノマド、ワーキャンパーとして働きながらバンに乗って移動する道。
そしてそれはアメリカにとってさほど珍しいことでもなく、
働く先々、移動する先々に仲間がいる。
一見彼女はうまくやっている。
ノマドとしての暮らしは悪くないように見える。
しかし彼女の心に大きく巣くっている「喪失感」、
それが私には終始気になっていた。
広大な自然に囲まれ抱かれて、
多くの感動を自然から得ることもあり、
また多くの仲間を助け助けられ、
関係を築きながらも彼女には空虚さが漂う。
ノマドとして日々働き移動する日々だが、
彼女の心は一カ所にとどまっているように見えた。

それがなんであるのか、
なぜであるのか、
私にはわかっていた気がする。
いや、もしかしたら私自身がとどまっているから、
ファーンに自己投影しただけかも知れない。
でもその喪失感と前に進めない感じが、
映画の間中ずっと苦しかった。
過去と目の前の現在にしか生きられないファーンが、
自分のことのように胸を締め付けた。

だから映画のクライマックスで、
語られる「この生き方が好きなのは"最後のサヨナラ”がないから」という言葉、
この言葉に涙が止まらず、
ファンの行動に胸の震えが止まらなかった。

思い切り心臓を鷲掴みにされた感覚だった。
そしてアメリカに住んでいたなら、
私は選択肢としてではなくワーキャンパーだっただろう。
逆に彼らを受け入れる労働市場があるアメリカ、
それが非正規、季節労働者であってもm
そう言う生き方ができるのがある意味羨ましかった。
日本ではそんなことはできない。
先ず住所がなければ雇ってもらえない。
非正規で生き続けられるまともな賃金などもらえない。
定年後になればなおさらだ。
だから頭の整理がつかない。
心はもっと千々に乱れている。

いつかはファーンのように踏み出さなければならない。
おそらくそのきっかけは父親の死だろう。
そのことは今から少しずつ覚悟してわかっている。
思い出に過去と現在だけに生きないように、
今から覚悟をしておかなければいけない。
でももしかしたら一度捨てなければいけないかも知れないと思った。
今の柵や腐れ縁を全部振り切って、
大自然に心の向くまま気の向くまま預けて、
今の自分を捨てなければいけない気がした。

ファーンの姿は私。
今の私、将来の私。
ああ、それにしても日本って窮屈。

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