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「時計仕掛けのオレンジ」 [ムービープラス]






近未来のロンドンで、クラシック音楽を愛する少年は、仲間たちと共に暴力とセックスに明け暮れる日々を送っていた。そんな中、彼はある殺人事件をきっかけに逮捕されてしまい、残忍な人格を矯正するという名目の奇妙な治療法の被験者となる。

何といっても50年も前の作品だから、
映画好きとしては伝説として、
折りにつけ話を聴くし、
いろいろな意味での問題作と認識していた。
もちろんキューブリックという監督の問題も。
それだけに迂闊に手出しができないというか、
若い頃に再映に恵まれなかったので、
ついぞ後回しにし続け、
「もはや見なくても良いのではないか?」
そうも思い始めたところで。

今と言うときで良かったのだと思う。
これはハッキリ言えば若い頃には受け止めきれない、
或いは曲解するか誤解するか、
悪い方向に自分が行っていた気がする、
そして70年代という時代の錯誤はあるが、
その映像も台詞も音楽も、
決してクラシックなどではなくて、
今も昔も変わらぬ傑作だと思う。
それほどまでに色褪せない力に満ちている。

ストーリーは何も言う必要はないだろう。
とにかくキューブリックの映像に対するセンス、
色の使い方はそのインパクトの強さ、
逆に色がない人々の荒廃した心の吐き出し、
暴力に対する報復の仕方、
やっていることは非道なのだが、
何処かに品を感じると言うか、
ただのやさぐれた人間の所業ではないところ、
それがこれをとんでもない映画にしている。
演技の演出も含めて、
俳優陣の顔ぶれもまたその色を強める。

50年経っても新しいとはこのことか。

自分が物心ついた頃の映画が、
今やクラシックになっているのだが、
「世界サブカルチャー史」に登場したような映画は、
古びるどころか、
当時最先端であった以上に、
今もなお燦然と輝き続ける名作でありながら、
それをクラシックと呼ぶことが憚られるほどに、
時代を超越した作品となっている。
それも見返す度に新鮮であり、
とんでもなき衝撃を常に与え続ける。
今のようにCGなどはない時代、
人間が作り得た技術の限界がありながら、
だからこそ作り得た作品の持つ力は偉大だ。

この時代は犯罪者、精神障害者の矯正を取り扱った作品があった。
その時代を経て、
今は矯正ではなく共生を模索する時代。
この映画のクライマックスまで事前に知っていたからこそ思うのだろうか、
結局のところ矯正ではなくて、
「そういうものだ」と受け入れることが寛容なのかもと思う。
特に高齢化社会に突入した今、
海馬の働きによって感情の抑制ができにくい老人は、
矯正したり争うのではなく、
彼らの価値観の中で彼らなりの生き方を、
世間が受け入れないと社会が成立しない気がしている。

制作から50年後の今。
若者の無軌道ではなく、
暴走老人の無軌道をこの映画から考えるとは。

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